風と草
多様性を乗り越える教え
2024-08-23
こんにちは、副住職の源さんです。
今日は昭島で子供の居場所づくり、学習支援、フードバンク活動等を行っている
「あのねの会」さんから依頼を受けて、坐禅会を行いました。
20名の多様な方々が集まりました。
小学校低学年から高校生までの子どもたち、その親御さん。
普段はオーストリアでお過ごしの御一家。
ウクライナから避難してきた方々と、支援されている方。
スタッフのなかには70~80代の方々も。
年齢も国籍も、歩んできた人生も、バックボーンとなる文化も実に多様な坐禅会となりました。
さて、そのような方々を前に私は何を話したらよいでしょうか。
仏教は奥が深いですが、子どもにも年配の方にも、
海外の方にも、すべての方々の心に届く教えはないか。
言い換えれば、多様性を乗り越える教えはないだろうかと考えました。
そこで思いついたのが『七仏通誡偈』という教えです。
これは各宗派を超えて仏教全体で大切にされている、
良く生きる上での真理というべきものでしょう。
諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
諸々の悪をなすなかれ。
多くの善をおこなえ。
みずからその心を清くせよ。
これが仏の教えである。
これを源さん流に言い換えたのが冒頭の画像となります。
(だいぶ意訳ですが)
「悪い事はせず、善い事をしよう。」
この言葉については詩人白楽天と禅僧道林の有名なエピソードがあります。
白楽天 「仏の教えとはどのようなものですか?」
道林 「悪い事はするな、善い事をしろ、だ」
白楽天 「そんなことは3才の子供でも分かってますよ」
道林 「しかし80才の老人でも出来ないことだろう?」
分かっていることと、出来ることは違いますよね。
誰もが「そりゃそうだよ」と思うけど、
簡単には出来ないのが「悪い事はせず、善い事をしよう」。
では何が悪くて、何が善いのか。
これは難しい問題です。
物事の善悪は思いのほかあやふやなことが多く、
見方を変えれば簡単にひっくり返ることも少なくありません。
悪い事ってなんだろう?
善い事ってなんだろう?
そうしたときに重要になってくるのが、次の教えです。
「自分の心が清らかにいられるように」
私は、心が清らかにいられる行いが、「善い事」だと思います。
スーッと心が清らかに、軽やかになる。
そんなときってありますよね。
善いことしたなあ、気分いいなあ、と思えることを行う。
それが時にはおせっかいになってしまったり、
ありがた迷惑になってしまうこともあるでしょう。
「善い事」をしても感謝されない、悪く言われることもあるでしょう。
しかし「善い事」はひとのために行うのではない。
自分の心が清らかにいるために行うことなのです。
結果としてひとが喜んでくれれば嬉しいですが、
見返りがなくても良いではありませんか。
逆に、自分の心が清らかにいられないことが「悪い事」だと思います。
なにか心にひっかかる、こんなことやっていいのかな、ほんとはダメなんだけどな、、、
そういう「悪い事」を繰り返していくと、
心は汚れ、曇ってしまいます。
しかし仏教では、人間が本来持つ良心を信じています。
この良心こそが、仏心だと思います。
「悪い事」をすると、心のどこかがズキっと痛む。
その痛みを大切に受け止めましょう。
そうして「悪い事」は出来るだけしないようにして、
心を清らかに保ちましょう。
他人や世間の軸で善悪を判断するのではなく、
自分の良心と向き合い、自分軸で善悪の基準を持ちたいものです。
いつの時代、どの国で、
どんな状況で生きていても、
3才でも80才でも、
人間にとって大切なことは変わることがないはずです。
大切にしていきたい仏の教えですので、
本日の坐禅会で紹介させていただきました。
それでは、分かっちゃいるけどやめられないことが多すぎる源さんでした。